命によせて

こういうエントリーを書かねばならないのは、なんともつらい。昨日は生きるということについて、嫌というほど向き合わねばならない日でした。

誰かが生きることをやめてしまった時、遺された私たちはその理由を意味を必死で見つけずにはいられません。「どうして?」「なぜ?」でもそこには納得できるだけの理由など、見つからない場合がほとんどです。

「心の病気だったらしい」「世の中や社会のせいらしい」「仕事が上手くいってなかったらしい」どれももっともらしいけれど、どれか1つではないのでしょう。全ては正しい。ただし部分的なのです。

心の病気の話や政府や社会への批判は、その専門家に任せるとして、私は仕事について書かねばなりません。

仕事というのはアイデンティティーの大きな部分を占めます。特にいまの日本は地域社会でのつながりや活動が希薄ですから、都会に暮らす人の多くが「家族構成員」「職業人」の2つのアイデンティティーで生活をしていると思います。

だから仕事をなくす、あるいは仕事がうまくいかないと、全く自分が価値のない人間のように思えてしまうかもしれません。価値という言葉をお金に還元できるものと捉えるかぎり、お金がない、お金を稼げないというのは、価値がないものになってしまいます。

ただよくよく考えてみると価値というのは、本当にお金だけで測れるものでしょうか。世の中にはお金にするといくらか分からないけれど、確かに価値のあるもので溢れています。私にもそうした面がたぶんあるはずです。きっと。

仕事がうまくいくこと、お金をかせぐこと、そういう自分に価値を感じること、それはとても大切です。とても正しい。でも部分的です。それが全て、唯一ではありません。

だから私は考えねばなりません。仕事がない自分は誰だろう。どんな価値があるだろう。自分には何ができるだろう。

仕事をしている自分を支えることができるのは、仕事以外の全ての自分です。それは父親としての、あるいは夫としての、あるいはどこかのコミュニティーとしての、複雑な私です。

やっぱりシンプルが好きだけどね、やっぱり心は複雑なんですよね。シンプルにしちゃったら生きていけないですもん。シンプルなゴールを作っちゃったら、それ達成したら人生が終わっちゃうじゃないですか。

私は複雑だから、人はどこまでいっても複雑だから、分からないから、分かろうとして、それで生きていけるんだなって。生きていかなきゃって。そういうお話でした。時間なので今日はここまで。