多様性と功利 #20

昨日の埼京線は地獄でした…。楽しくブログを書いた私は、まさかその後の通勤に2時間もかかるとは予想すらしていなかったのです。おはようございます。

今日もさっそく埼京線が遅延しているようで、2日連続で線路内にスタンド・バイ・ミーしてしまった人がいるようです。

たった一人が青春を求めて線路を歩くと、大勢の人が大変なことになります。それによって人生が変わってしまう人だってでてくるかもしれません。

今、私たちの社会はこういった「多様性」と向き合おうとしています。(スタンド・バイ・ミーは社会では認められませんが)

人の心はオリンピックで世界新記録が更新されるように、日々すこしずつ成長を続けています。それにともなって新たな美が生まれ、それが善となって社会を変えていきます。

少し前までは利益を多く出す会社が優秀でした。たとえどんな手を使っても、儲けることが正しかったのです。ところが今はそうではありません。企業活動には社会的責任が生まれ、さらにそれにとどまることなくSDGsやダイバーシティといったことも求められるようになっています。

前時代的な善、ここでは価値観と言ってしまっても良いかもしれませんが、それを更新できない企業は批判の対象になっています。

この多様性を受け入れる社会というのは、とても難しいなぁと私は感じます。本来、多様性を認める社会では、どんな人も活き活きと暮らしているはずです。でも昨日の埼京線のように、誰かがスタンド・バイ・ミーすれば、誰かは我慢しなければなりません。こうしたことは、現実におきつつあります。

テレビのお笑いもそうですね。人を傷つけたり、嘲笑するものは受けられなくなりました。でもそういうお笑いが好きだった人、そういうお笑いをやっていた人は、社会に居場所が無くなりました。

部下の育休取得のために最高の振る舞いをした上司は称賛されますが、そこで働く他の同僚のストーリーは語られることはありません。それはある種のタブーなのだと思います。

私たちは多様性と功利(最大多数の最大幸福)の中で、どう折り合いをつけていくか。もちろん、私が例としてあげているのは短期的な視点です。数十年というスパンで考えれば、多様性を認めること、許容することは人類という種が続いていくためにも必要なことだと思います。

今はただの過渡期にいると思うのですけど、多様性のある社会というのが「みんなが活き活きする社会」ではなく「みんなが少しずつ我慢する社会」になっていくのかなと、ふとそう思うことがあります。

相手の立場を認め、尊重できるというのは心理発達の視点でも確かな成長です。ただ私たちはその視点と同時に、それに対処するスキルを身に着けなければならないかもしれません。

それはまさにカウンセリングマインドと呼ばれるもので、次の社会を生きるために、必須のスキルになっていくのではないかと思うのです。時間なので今日はここまで。